局長あいさつ


沖縄県病院事業局長挨拶
(自己紹介)
 私は令和5年4月1日に沖縄県病院事業局長を拝命した。昭和56年に大阪大学医学部を卒業後、直ちに県立中部病院で卒後医学臨床研修を開始した。1年間のローテートインターン、3年間の一般外科研修を終了し外科スタッフに採用された。その後は同院で一般外科、心臓血管外科の診療に従事し、平成28年に県立八重山病院に副院長として赴任した。その年の7月に八重山群島は大型台風に見舞われ、老朽化した八重山病院も大きな被害を受けた。視察に見えた県知事の決断で新築建替えが決まり、2年間の八重山病院勤務で新病院の設計に携わる経験ができた。そのときの方針は、災害、特に台風に強い病院、新興感染症に対応できる病院作りであった。令和2年からの新型コロナ感染症は世界を未曾有の恐怖に陥れたが、八重山病院は県立病院で唯一施設としてこの感染症に対応できたのではないかと思う。
 県立病院全体を見ると、令和3年から4年にかけての中部病院のコロナ感染症クラスター問題対応について病院現場と病院事業局で認識の違いが生じ、県議会やマスメディアで大きく取り上げられていた。コロナ患者特に重症患者を引き受ける県立病院現場と病院事業局で連帯感が醸成できないまま、現場の医療従事者には疲弊感が増し、病床縮小、閉鎖へとつながり病院の経営にも悪影響が出始めた。これまで歴史的にも沖縄県の医療の屋台骨である県立病院存続に県知事、副知事は強い危機感を感じていたようで、そんな中での。局長指名であった。
(沖縄県の戦後医療と沖縄県病院事業局)
 沖縄県の医療は戦後、極度の医師不足という極悪な環境からスタートした。
医療は米軍兵舎やトタン葺きの施設で行われ、昭和21年に現在の沖縄市に500床のコザ病院(中部病院の前身)が開設され本格的な医療体制が構築された。その後幾多の変遷を重ねて琉球政府立中部病院、復帰に伴い沖縄県立中部病院と改称された。その後、琉球政府立那覇病院、北部病院、宮古病院、八重山病院が次々と開設され、南北約500kmの島嶼県沖縄の医療を支える中心となった。復帰後は琉大病院、国立病院、民間病院等次々に開設され、機能分担が生まれつつある。
 医師の養成は昭和42年に中部病院でハワイ大学卒後医学臨床研修が開始され、現在2700名余の研修修了生を輩出し、その約6割が沖縄県の医療に従事している。戦後極度の医師不足から始まった戦後医療も琉大医学部の設立から医師の数も徐々に増加し、人口当たりで見れば、現在では日本の平均を上回っている。看護学校は終戦直後の昭和21年には早くも開校し、コザ看護学校、那覇看護学校、沖縄看護学校、沖縄看護大学と歴史を重ね現在に至っている。島嶼県の沖縄の医療は県立北部病院、中部病院、南部医療センター・こども医療センター(旧那覇病院)、南部病院(廃院)、宮古病院、八重山病院、精和病院の県立病院が過去も現在も支えているといっても過言ではない。
 県立病院の使命は政策医療、不採算医療の継続的な実行である。これらを実施するためには沖縄県(保健医療部)との連携は必須であり、その架け橋的役割を担うのが病院事業局である。県立病院の運営方式は平成18年に地方公営企業法一部適用から全部適用となった。規程上事業管理者の設置が義務付けられ、経営責任、組織・体制に関する権限、職員の採用に関する権限、職員給与の決定などの責任を事業管理者が負うこととなる。全部適用以後約18年、病院事業局では特に経営面で紆余曲折が見られた。知念初代局長時代は約100億円の資金不足で自転車操業状態であった。しかし、平成21年からの経営再建計画策定の中で、事業局事務方の努力による公立病院特例債発行30億円の調達、知事決断による一般会計繰入金3年間定額措置(約84億円/年間)がなされ、その結果経営は好転し6年連続の経常黒字となった。しかし、平成26年の消費税増税、会計基準見直しなどで再び経常赤字となり、更に、平成29年、労働基準監督署勧告で過去分時間外手当約14億円を支払うこととなり初期の頃の振り出しの危機に直面した。しかし、現場の努力で令和1年には経常収支は黒字に転換。令和2年からはコロナ補助金の影響で病院事業経営は過去に類を見ない経常黒字を計上した。但し、修正医業収支は大幅な赤字で、コロナ感染症が収束に向かう令和6年からはコロナ補助金は見込めないため、修正医業収支の改善は必須で、そのためには病院現場と病院事業局は緻密な連携が必要である。今年度から病院事業局長、統括監、課長が刷新された。そんな中で、異口同音に病院事業の課題として病院事務職の強化があげられた。特に診療情報管理士の養成は喫緊の課題であり、病院経営で診療情報管理士が活躍する複数の病院に事務方を派遣、状況を調査し、次年度からは病院現場の職員のキャリアアップを図り経営改善につなげる方針である。これらの強化策は全職種に展開していく予定である。

 2023年4月1日    本竹 秀光